昭和元年 12月25日

大正天皇崩御 昭和天皇即位

1927年(昭和2年) 1月27日

太平洋横断無線電話サービス開始

アメリカン電話電信会社。 三分間75ドル

3月14日

片岡蔵相失言 (→金融恐慌)

3月15日

東京渡辺銀行などで取付け騒ぎ

3月24日

南京事件 蒋介石

事件はあえて外国の干渉をさそって蒋介石を倒す共産党側の計画的策謀といわれている。その後の中国の進路や日本の対中政策を大きく変えることになった。

4月12日

四・一二事件、上海クーデター (国共分離)

蒋介石

4月18日

南京国民政府成立

蒋介石が南京に国民政府を樹立。 南京と武漢、国民政府が2つになった

5月20日

大西洋横断無着陸飛行に成功

リンドバーグ ニューヨーク-パリ 間

5月28日

第一次山東出兵

田中義一   森恪 居留民の生命財産を現地保護するため、というのがその理由であった。 しかし、真の狙いは、満州・華北に革命が波及することをふせぐことにあった

7月24日

芥川龍之介 服毒自殺

東京・田端の自宅 にて

12月30日

東京地下鉄(現東京メトロ)上野-浅草間 開通

東洋、日本初の地下鉄。上野-浅草間の距離は2.2km

1928年(昭和3年) 3月3日

パリ-ニューヨーク間 電話開通

3月10日

ブラウン管を用いたテレビ実験に成功

高柳健次郎(浜松高等工業学校教授) カタカナ文字の送受信は1926年に成功。

4月19日

第二次山東出兵

田中義一  森恪 小川 平吉 蒋介石 張作霖 動き出した北伐軍。 張作霖に危機迫る。 見るに見かねて2度目の出兵

5月3日

済南事件

蒋介石 田中義一 日本軍(第二次山東出兵)と北伐中であった蒋介石率いる国民革命軍(南軍)との間に起きた武力衝突事件

5月8日

第三次山東出兵

田中義一 蒋介石 張作霖 中国側は三六〇〇人の死者と一四〇〇人の負傷者をだし、済南は壊滅

5月11日

ニューヨークでテレビ放映開始

週三回、1回30分。

5月21日

野口英世 黄熱病で死去

西アフリカ・アクラ にて

6月4日

張作霖(ちょうさくりん)爆殺事件(満洲某重大事件)

田中義一、河本大作、昭和天皇 関東軍司令部では、国民党の犯行に見せ掛けて張作霖を暗殺する計画を、関東軍司令官村岡長太郎中将が発案、河本大作大佐が全責任を負って決行

Wikipedia : 張作霖爆殺事件

11月1日

ラジオ体操放送開始

新天皇即位記念事業として

11月10日

第124代天皇裕仁 正式に即位

1929年(昭和4年) 8月19日

世界最大飛行船「グリーン・ツェッペリン」号

東京上空に出現

10月24日

暗黒の木曜日、世界恐慌の始まり

1930年(昭和5年) 4月22日

ロンドン海軍軍縮条約調印

9月14日

ナチス 第2党へ躍進

107議席まで獲得

10月27日

霧社事件(台湾)

しいたげられてきた高砂族暴発。 日本人の集まる運動会が血の海に、日本人に対してモーナルダオは奇襲をかけ、 二二七名の日本人中、死者一四三、重傷八(のち二名死す)、軽傷十二

11月18日

創価学会設立

牧口常三郎、戸田城聖

Wikipedia:牧口常三郎

1931年(昭和6年) 3月17日

三月事件 (陸軍によるクーデター未遂)

宇垣派 橋本欣五郎ら桜会 大川周明 赤松克麿 闇から闇に葬られて現実の問題にならなかったが、 消息通の間には大きな衝撃をあたえた事件、 陸軍大将宇垣一成を首相とする軍部政権をつくるというのがそのねらい

9月18日

柳条湖事件(満州事変勃発)

板垣征四郎、石原莞爾 奉天(瀋陽)郊外にある柳条溝で起きた南満州鉄道の線路爆破事件をきっかけに、 日本の関東軍が軍事行動を開始、関東軍は、日本政府の事変不拡大方針にもかかわらず、戦線を拡大。爆弾を仕掛けたのは関東軍独立守備歩兵第2大隊第3中隊の河本末守中尉ら

Wikipedia : 満州事変

9月21日

朝鮮軍、満州へ越境出動

石原莞爾 林銑十郎 林銑十郎司令官の朝鮮軍が、命令もないのに軍を動かし満州に侵入した。中佐が中将に指示を出し、中将がそれに従って、天皇の統帥大権を犯した。

10月8日

錦州爆撃

石原莞爾 張学良 陸軍は、若槻内閣の不拡大方針、円満処理などの方針を無視し、 満州事変をいっそう拡大

10月17日

十月事件(桜会によるクーデター未遂)

橋本欣五郎 長勇 建川美次 事変遂行の妨害者である第二次若槻内閣を倒して 事変遂行のための軍政府を樹立しようという第二のクーデター計画、天皇の耳にも入り、金谷参謀総長はまたしても叱られた、

10月18日

アメリカの発明王 エジソン 死去

10月24日

国際連盟、満州撤兵勧告案可決

10月26日

日本政府、撤兵の前提条件を声明

11月7日

中華ソビエト共和国臨時政府(瑞金政府)成立

毛沢東を臨時政府主席 張国燾 項英 周恩来

11月18日

日本政府、満州への増派を閣議決定

若槻内閣 陸軍と世論に押されて、方針変更。

12月10日

国際連盟、満州問題調査委員会設置

ヴィクター・ブルワー=リットン アンリ・クローデル リットン調査団 国際連盟日支紛争調査委員会

1932年(昭和7年) 1月18日

第一次上海事変

2月9日

血盟団、井上準之助前蔵相を暗殺

3月1日

満州国建国(~1945年8月18日)宣統帝(愛新覺羅 溥儀)

関東軍の主導のもと同地域は中華民国からの独立を宣言し、満洲国の建国に至った。満洲国は建国にあたって自らを満州民族と漢民族、モンゴル民族からなる「満洲人、満人」による民族自決の原則に基づく国民国家であるとし、建国理念として日本人・漢人・朝鮮人・満洲人・蒙古人による「五族協和」を掲げた。映画「ラスト・エンペラー」が有名 「地ひらく 石原莞爾と昭和の夢」福田和也

Wikipedia : 満州国

4月26日

中国・瑞金(中華ソビエト)政府、対日宣戦布告

4月29日

上海爆弾テロ事件

軍司令官白川義則大将 重光葵 野村吉三郎 尹奉吉 上海公園で行われた天長節の式場に朝鮮人が爆弾を投げこみ、軍司令官白川義則大将は間もなく死亡、 重光葵公使は片脚を失い、野村吉三郎中将は片眼を失った

5月5日

上海停戦協定調印

蒋介石 中国政府は、その中で、中国軍をこの中国最大の都市から撤退させること、 および全国的に抗日運動を禁止することを約束

5月15日

五・一五事件 犬養毅首相暗殺

犬養毅犬養毅と暗殺を行った青年将校との間で「話せば分かる」「問答無用」というやりとりがされたという逸話が残る。

Wikipedia : 五・一五事件

6月29日

特別高等警察部設置を公布

7月31日

ドイツ総選挙でナチス 第一党に

230議席を獲得

9月15日

満州国承認 (日満議定書調印)

日本の既得権益を承認 / 国防を関東軍に委任 / 最高権力者は日本人 / など

9月20日

マハトマ・ガンジー 無期限ハンストに

イギリスが提示した不可触民の権利を制限した選挙法に抗議

10月9日

スターリン 独裁体制確立

1933年(昭和8年) 1月30日

アドルフ・ヒトラー内閣、発足

ブルガーニン

1933年4月10日 演説:アドルフ・ヒトラー(Adolf Hitler)

2月24日

国際連盟にてリットン報告書可決、日本代表退席 松岡洋右

賛成42、反対1(日本)、棄権1(シャム=タイ)の全会一致

2月27日

ドイツ国会議事堂 放火炎上

3月27日

国際連盟脱退表明

5月31日

日中軍事停戦協定(塘沽停戦協定)

蒋介石 万里の長城を越えた関東軍、華北に非武装地帯を設定。 満州事変が一段落。

6月19日

熱海-函南 丹那トンネル開通

9月21日

宮沢賢治 死去

12月5日

アメリカ 禁酒法解除

12月23日

今上陛下(皇太子明仁親王)御誕生

父親・昭和天皇  母親・香淳皇后 皇后美智子様(旧姓・正田)

12月26日

日本共産党査問リンチ事件

宮本顕治 日本共産党中央委員であった小畑達夫、大泉兼蔵に対し「特高警察のスパイの疑いがある」として査問という名の凄惨な拷問を加えたとされる。小畑は拷問により死亡、大泉は拷問に耐え切れず気絶、のちに蘇生した。

1934年(昭和9年) 3月1日

満州国帝政実施

愛新覚羅溥儀

3月21日

フェーン現象により、函館大火

アマチュア無線技士(我が国初、非常用通信実施。) 焼死者:648名、焼失家屋2万3600戸。

8月

アドルフ・ヒトラー、首相兼大統領(総統)に就任

ブルガーニン、ヨセフ・ゲッペルス

統合戦争辞典:第2次世界大戦年表

12月3日

ワシントン条約単独廃棄を閣議決定 (12/29 アメリカ政府に通告)

1935年(昭和10年) 2月28日

合成繊維「ナイロン」 開発成功

米デュポン社が開発

3月16日

ドイツ再軍備宣言

8月1日

八・一宣言

王明

8月3日

政府、国体明徴声明

8月31日

中立法制定 アメリカ議会

モンロー主義を採るようになる。 モンロー主義とは、他国の戦争・紛争には関与しない。という主義であり、このために日本に対し様々な挑発行為が行われたという説もある。

9月15日

ナチス 「ニュルンベルク法」公布

純血保護法。ユダヤ人種を劣等民族と規定

10月15日

政府、国体明徴声明(天皇機関説は国体に背くと明言)

10月21日

ドイツ、国際連盟脱退

12月12日

西安事件

蒋介石、毛沢東 張学良 楊虎城 張学良・楊虎城、蒋介石を監禁、これをきっかけに抗日民族統一戦線が始まる

1936年(昭和11年) 1月15日

ワシントン・ロンドン海軍軍縮会議脱退

2月26日

二・二六事件

高橋是清、岡田啓介、北一輝、大川周明 日本の陸軍皇道派の影響を受けた青年将校らが1483名の兵を率い、「昭和維新断行・尊皇討奸」を掲げて起こしたクーデター未遂事件

Wikipedia:二・二六事件

3月7日

ドイツ、ラインラント進駐

5月9日

イタリア、エチオピア併合

ベニート・ムッソリーニ

5月18日

軍部大臣現役武官制復活

陸相辞任 後任推薦拒否 = 内閣総辞職

7月18日

スペイン内戦勃発

フランシスコ・フランコ、マヌエル・アサーニャ

8月11日

ベルリンオリンピック

第11回オリンピック。IOCとナチスのせめぎ合いの中、開催

11月25日

日独防共協定 広田弘毅内閣

翌年イタリアが加わり日独伊三国防共協定。ベルリンで調印

12月12日

西安事件

張学良 楊虎城 蒋介石 張学良・楊虎城、蒋介石を監禁。張学良たちは、十二日、 突如蒋介石を幽閉する挙にで、その方針の転換(つまり内戦の中止と抗日のために統一戦線の結成)をせまった。

4月26日

スペイン北部の町「ゲルニカ」へ無差別爆撃

ドイツ空軍。住民7000人のうち1600人が死亡、1000人が負傷

5月6日

巨大飛行船「ヒンデンブルク号」 爆発炎上

ナチス・ドイツが開発。 ニューヨーク近郊レイクハーストでアメリカ-ドイツ間の定期航路第1便だった。

1937年(昭和12年) 7月7日

盧溝橋(ろこうきょう)事件・日中戦争勃発

コミンテルン(ソ連)、中国共産党、劉少奇中華民国:蒋介石、馮玉祥(ふう ぎょくしょう)、宋哲元(そう てつげん)日本軍:大日本帝国陸軍、田代 皖一郎  中国共産党の陰謀で勃発 銃声が聞こえたというだけで、死傷者ゼロで数日後にはお互いに手打ちをしており、事件と呼ぶにも値しない出来事である。 が、それだと日本人が大量虐殺された通州事件が日中戦争の原因ということになってしまうので、それでは都合が悪い人たちによって日中戦争の発端はこの事件なのだということにされている。

7月11日

盧溝橋事件現地停戦協定成立

日本政府、華北への派兵を声明 (盧溝橋事件)

7月28日

日本軍、総攻撃開始 (華北)

7月29日

通州事件勃発

冀東防共自治政府保安隊 中国人部隊が日本人居留民を襲撃、約230名が虐殺される。

8月13日

第二次上海事変

大山勇夫 作家ユン・チアン イギリス人歴史学者ジョン・ハリデイ 「マオ 誰も知らなかった毛沢東」

9月12日

中国国民政府、国際連盟に日本軍の侵略を提訴

9月23日

第二次国共合作の成立

10月6日

国際連盟、日本を九ヵ国条約と不戦条約に違反していると決議

11月4日

戦艦「大和」 起工

世界最大、46cm砲9門搭載。

11月6日

ローマで日独伊防共協定調印

12月13日

南京陥落

松井石根、蒋介石、唐生智(とう せいち) この時、日本軍がいわゆる「南京大虐殺」を行った。その殺戮人数は0〜2000万人と諸説ありバラエティに富む。

1938年(昭和13年) 1月16日

第一次近衛声明

近衛文麿 トラウトマン工作に基づいた和平案提示に対し、蒋介石率いる国民政府が応じないことを原因として、交渉打ち切りの声明を発表。日本政府は国民政府との話し合いを自ら放棄し、戦争終結の手がかりを失う。

3月13日

ドイツによるオーストリア併合

クルト・フォン・シュシニク、ザイス・インクヴァルト

4月1日

国家総動員法公布

近衛文麿

7月30日

張鼓峰事件

第19師団独断でソ連と国境紛争

10月27日

日本軍、武漢占領

9月

ミュンヘン会議

英・仏・伊・独 チェコスロバキアはズデーテン全域をドイツに明け渡すことが決まる。

張鼓峰事件(ちょうほこうじけん)

11月3日

第二次近衛声明(東亜新秩序建設)

近衛文麿 欧米帝国主義の支配からアジアの開放、反共、日本、満州、中華民国3カ国の連帯を謳う

12月22日

第三次近衛声明(近衛三原則)

近衛文麿 対中国和平における3つの方針(善隣友好、共同防共、経済提携)を示した

1939年(昭和14年) 1月6日

ドイツ外相、3国同盟を日本政府に提案

12月26日

創氏改名(昭和十四年制令十九号・二十号)

日本風の名前が制限されていたのを一定期間内の届出について解除

3月

チェコスロバキア解体

チェコスロバキアが解体され、ドイツ領、ハンガリー領、スロバキアへ

3月21日

ドイツ、ポーランドにダンチヒ割譲を要求

ポーランドはこれを拒否

3月23日

ドイツ、メーメル(リトアニア)併合

3月28日

首都マドリードに入城 スペイン人民戦線降伏

フランシス・フランコ

4月30日

ニューヨーク万国博覧会 開催

5月12日

ノモンハン事件

小松原満太郎、宮崎繁三郎、ゲオルギー・ジューコフ ジューコフは、戦後アメリカの軍事史研究家・ミシガン大学教授のロジャ・F・ハケット氏のインタビューで「戦歴中で最も困難だった戦いは何か」と聞かれ即座に「ノモンハンの戦いだ」と答えたという。

Wikipedia:ノモンハン事件

5月22日

独伊軍事同盟(鋼鉄協約)

6月14日

日本軍、天津英仏租界を封鎖

7月26日

アメリカ、日米通商航海条約の廃棄を通告

フランクリン・D・ルーズベルト

8月23日

独ソ不可侵条約

「欧州情勢は複雑怪奇なり」

9月1日

ドイツがポーランドに侵攻(第二次世界大戦の開始)

アドルフ・ヒトラー、マンシュタイン、リッペンドルフ、モロトフ

weblio 用語解説

9月3日

英仏、対独宣戦布告

9月3日

大本営、関東軍にノモンハン作戦中止を命令

9月17日

ソ連軍、ポーランドに侵攻

ヨシフ・ヴィッサリオノヴィチ・ジュガシヴィ

リンク:第二時世界大戦資料館

11月30日

冬戦争開始(ソ連、フィンランド)

カール・グスタフ・エミール・マンネルヘイム

1940年(昭和15年)

皇紀2600年

1月26日

日米通商航海条約 失効

3月13日

モスクワ講和条約(冬戦争停戦協定)

フィンランドにとって過酷な講和条件であった。そのためフィンランドは領土の奪還を誓うとともに軍事援助を受けることを目的としてナチス・ドイツに接近することになる。

3月30日

南京政府樹立

汪兆銘

4月9日

ドイツ 中立国ノルウェーとデンマーク占領

5月10日

独軍、西部戦線に総攻撃開始

アドルフ・ヒトラー、エーリッヒ・フォン・マンシュタイン 13日 西部戦線にて連合軍総崩れ、独軍勝利

6月22日

フランス降伏

ペタン政権

7月19日

荻窪会談

近衛文麿、吉田 善吾、松岡洋右、東条英機 近衛の別荘に外相、陸相、海相予定者が集まり、「南進」や「枢軸強化」を決めた

7月22日

第2次近衛内閣

近衛文麿

近衛内閣、基本国策要綱決定

「大東亜共栄圏」構想

8月13日~9月15日

バトル・オブ・ブリテン(対イギリス航空戦)

メッサーシュミットBf-109戦闘機の航続距離不足で爆撃機を十分護衛できず、爆撃隊は大損害を被り、また開戦以来、電撃戦で大戦果を上げてきた急降下爆撃機も大損害を被った。その結果、ドイツ空軍は9月15日以降、昼間のロンドン空襲を中止し、ヒトラーはイギリス上陸作戦を無期延期とした。

8月15日

民政党解党(以後無政党状態)

町田忠治 日本に政党が存在しなくなり、「大正デモクラシー」などを経て日本に根付くと思われていた議会制政治は死を迎えた。

8月20日

トロツキー 暗殺

メキシコに亡命中、ピッケルで。

9月7日

ロンドン大空襲 独軍900機が爆撃

9月19日

日独伊三国軍事同盟締結を御前会議にて決定

9月23日

北部仏印進駐

ヴィシー政権の了承を得、援蒋ルート遮断を目的に進駐。イギリスやアメリカ、オランダなど宗主国からの警戒を招く

9月27日

日独伊三国軍事同盟

ヒトラー、ムッソリーニ、近衛文麿(このえふみまろ)

10月12日

大政翼賛会成立

近衛文麿

10月28日

ギリシャ・イタリア戦争開始

ベニート・ムッソリーニ

11月12日

オランダより石油130万トン買付成功(調印日時)

11月16日

ワルシャワにゲットー設立。 ユダヤ人を強制収容

およそ50万人のユダヤ人を強制収容。うち約12万は衰弱死、約31万人がガス室のある収容所送りになる。

11月23日

タイ・フランス領インドシナ紛争勃発

東京条約の締結、タイは旧領土をフランスから取り戻すことに成功

1941年(昭和16年) 3月3日

国家総動員法改正

3月26日

松岡外相訪欧(ベルリン)

ヒトラー、ムッソリーニ、スターリン、松岡洋右

4月1日

中部軍指令部で「中部無線義勇団」 結成

その後、東海支部の一部のアマチュアも合流。大阪支部、名古屋支部の2支部に

4月6日

ドイツ軍、ユーゴ・ギリシア侵攻開始

4月17日

ユーゴスラビア降伏

4月13日

日ソ中立条約締結

松岡洋右・ヴャチェスラフ・モロトフ チャーチルは松岡に早晩、ドイツはソ連に侵攻すると警告していた。

4月16日

日米交渉開始

4月18日

日米了解案

野村吉三郎、近衛文麿、東条英機

4月22日

松岡外相凱旋帰国

松岡洋右 日米交渉に反対

4月23日

ギリシア降伏

6月14日

東京・幸町 大阪ビルに「東部国防無線隊」 結成

6月22日

独ソ戦開始

アドルフ・ヒトラー 独、ソ連に宣戦布告

6月26日

継続戦争開始(ソ連、フィンランド)

7月2日

御前会議、「南進」「北進準備」を決定

7月2日

関東軍特種演習 発動

ソ連軍侵攻阻止を名目に、関東軍の兵力を増強した

7月24日

札幌グランドホテル 北海道中心に「北部国防無線隊」 結成

7月25日

アメリカ、日本資産の凍結

日本の武力発動に、経済制裁で対抗するアメリカ、「関特演」に対して日本資産を凍結

7月28日

南部仏印進駐

ヒトラー、ヴィシーフランス、近衛文麿 ヴィシー政権の了承は得ていたものの(7/23に話し合いが成立)、またも各国の反発を招く。日本側の想定を上回る、在英米蘭の日本資産凍結、日英通商条約廃棄、アメリカの対日石油禁輸などの制裁が発動される。

日蘭石油民間協定を停止

8月1日

対日石油輸出全面禁止(ABCD包囲網)

アメリカ、イギリス、中国、オランダ
日本は経済的に孤立になる

8月2日

アメリカがソ連に経済援助を開始

ルーズベルト、スターリン

8月17日

アメリカ、日米首脳会談の提案に回答 (態度表明が先決)

8月25日

イラン進駐

イギリス、ソビエト連邦、イラン 石油ルート確保のため、連合国に対し鉄道使用を拒否したイランに対し、イギリスとソビエト連邦が侵攻を行う

8月14日

大西洋憲章

ローズヴェルト、チャーチル ファシズムに対する民主主義防衛の戦争であるとする宣言

8月31日

中部無線義勇団関西支部、西部軍管区の明員により「西部国防無線隊」 結成

9月3日

アウシュビッツで毒ガス処刑 始まる

9月6日

帝国国策遂行要領 決定

近衛文麿 対米開戦を決意

10/15

ゾルゲ事件

リヒャルト・ゾルゲ 尾崎秀実 マックス・クラウゼン ブランコ・ド・ヴーケリッチ 18日 機密情報をソ連に流したとして、ゾルゲを逮捕。

10/18

東条内閣発足

東条英機 木戸幸一 -1944年(昭和19年)7月22日近衛文麿・東条英機らは、東久邇宮内閣を求めたが、皇族が責任を負う可能性を危惧した木戸幸一の提案により、東条英機内閣が発足

11/26

野村・来栖両大使、ハル・ノートを受領

コーデル・ハル 野村 吉三郎 来栖 三郎  J・プリチャード「こんな物を出されたらモナコやルクセンブルクでも戦争をするだろう」

12/01

御前会議、対米開戦決定

12/08

大東亜戦争

東条英機 F・ルーズベルト
一般的には大東亜戦争(太平洋戦争)の開戦とされるが、それまで日本は中国大陸でフライング・タイガースという、アメリカの「義勇軍」と戦っていたため既にアメリカとは戦争していたと言う意見もある。損害(大東亜(太平洋)、シナ(日中)) 日本側 軍人死者155万5308人 民間人死者41万7495人 軍人負傷者 30万9402人 アメリカ側 死者 9万2904人 負傷者20万8333人 
戦争の結果 連合国側の勝利
山岡荘八「太平洋戦争」文浦史朗「図解雑学・太平洋戦争」

Wikipedia:大東亜戦争

12/08

Wikipedia:真珠湾攻撃

山本五十六      南雲忠一       三川軍一  作戦目的は、ハワイ滞在の艦艇、基地施設等の破壊であった。空母レキシントン・エンタープライズは、それぞれミッドウェー、ウェーキに航空機を輸送するため留守にしていたため破壊できなかった。 13隻の戦艦と、400機ある航空機のうち300機を破壊・損傷させたものの、第三次攻撃を見送ったため、修理工場、基地施設、燃料タンクは健在となってしまった。三川軍一中将はこれら港湾施設を徹底的に破壊するために第三次攻撃を主張したが、そもそもなけなしの虎の子空母・艦載機を総動員していたため、南雲中将は兵力の消耗を避けることを優先した。 攻撃の大成功が伝えられると国民は沸き立ったが、アメリカ側は数ヶ月ほどで艦隊を立て直すことに成功しており、日本の短期決戦戦略が頓挫する一因ともなった。 ←第二次攻撃見送り?(第三次の間違いでしたので、修正しておきました。しかし、三川中将が具申したのは、空母の探索撃破ではなく、港湾施設の徹底破壊です)←空母は近海にいなかった?(レキシントンはミッドウェイに向けて航海中、エンタープライズはウェーキからの帰還中。どちらも真珠湾から数日圏内の距離にはいました。しかし、真珠湾攻撃の目的の第一は空母ではなく、空母に特化してたわけでなく、艦艇一般であり、及び、これらを維持するために港湾施設でした) ←ソースありましたらm(._.)m オネガイします。この作戦の目的は、米太平洋艦隊の主力部隊の無力化です。またその際、空母が第一目標になるというのは特に異論はないと思います。米空母「エンタープライズ」は約200マイル西方に位置し、偵察機が約40分で到達する距離だったかと思います。(www.jiji.com/jc/v2?id=20091207attack_on_pearl_harbor、space.geocities.jp/umi9994/page017.html)

12/08

マレー半島上陸開始

    

山下 奉文
パーシバル 「マレーの虎」山下中将 率いる第25軍、未明のマレー半島に上陸

ていていた〜 : [Flash]大日本帝国の最期 第壱幕

12/08

香港攻略戦

酒井隆        栗林忠道      
英国は香港の防衛戦を「東洋のマジノライン」と豪語していたが、3週間弱(-12/25)で攻略。これをもって、東アジアから英国勢力は一掃された。 酒井隆中将は、敗戦後、中国侵略の主な実行者、として南京軍事法廷にて死刑判決(昭和21年8月27日)、銃殺刑に処された(同年9月30日)。

12/08

フィリピン攻略戦   

本間雅晴        
D・マッカーサー - 1942年5月10日。
真珠湾・マレー半島と共に、開戦初期に最も重要視された戦い。1月8日時点でマニラを占領。その後、D・マッカーサーがバターン半島・コレヒドール島に立て篭もり、消耗戦を挑んだため戦闘が長引き、占領までは半年を要した。マッカーサーは陥落前に「I shall return」と言い、兵を残し単独脱出した。
戦力: 日本軍 43,110 vs 米陸軍 22,532 フィリピン兵 120,000
損害: 戦死: 日本軍 4,130 vs 米軍 2,500 
戦傷: 日本軍 6,808 vs 米軍 5,000 
捕虜: 米軍 83,631

12/08

対米最後通告

12/08

開戦と同時に私設無線実験局の使用禁止命令発令

無線機(送信機)は軍、逓信省係官の手により封印され、所持者は、封印請書を提出。逓信省当局は受信機は残し利用できないか考えたが、軍からの要請で受信も禁止の状況になる。

12/10

マレー沖海戦

松永貞市       
T・フィリップス 航空機による航行中の戦艦を初撃沈(戦史)英不沈戦艦 プリンス・オブ・ウェールズ 撃沈

12/12

東條内閣の閣議決定により「大東亜戦争」名称と定義決定

東条英機 「今次ノ対米英戦争及今後情勢ノ推移ニ伴ヒ生起スルコトアルヘキ戦争ハ支那事変モ含メ大東亜戦争ト呼称ス」 大東亜戦争の定義等に関する質問主意書 提出者:鈴木宗男 平成19年1月26日答弁書:内閣総理大臣安倍晋三 平成19年2月6日 

12/21

日泰攻守同盟条約公布

日本、タイ 翌年1月、タイ国内への都市攻撃を開始した米英に対してタイが宣戦布告

希望画像:1941年当時のアジア情勢(欧米列強の植民地支配の状況)が分かる地図を見つけた方は、この下に載せてください。@ひとがたち  下記を見ても分かるとおり、1940年前後のアジアは日本とタイをのぞいて、ほぼ全てが欧米列強の植民地であった。この地図は正確には1895年の日清戦争直前ぐらいですよね(根拠ロシア帝国がある。日露戦争後に日本の勢力圏となった地域がロシア勢力圏として記載されている。三国干渉を経て山東半島がドイツの勢力圏となったが、その地域がまだ清の地域となっている)

1939年の地図ならwikipediaの太平洋戦争(english)の項目見つけました。どう取り扱うべきか 世界の石油産出量(2006年のデータ)主な鉄鋼山地図※ABCD包囲網により日本の資源獲得情勢は完全に詰みゲーである

Wikipedia:Pacific Area - The Imperial Powers 1939 - Map

1942年 昭和17年 1月-3月

蘭印攻略

今村均 ハイン・テル・ポールテン  
オランダ軍はほとんど戦闘もせずに降伏し、しかし捕虜としてきちんと扱え、と厚かましい待遇を要求した。 終戦後、司令官だったポールテンはこの軟弱な姿勢を追求され、言い訳自己弁護に後半生を費やした。また、オランダ政府は現在にいたるまで日本政府に対し、損害賠償を要求するなどしている。 むしろこういったいびりたかりこそが、世界の普遍的な姿なのであろう。日本だけが潔く、大人しすぎるのである。

Wikipedia:蘭印作戦

01/01

連合国共同宣言

フランクリン・ルーズベルト、ウィンストン・チャーチル 枢軸国と交戦状態にあった26ヵ国の代表が連合国共同宣言に署名。これが後の国際連合(現在の国連)の基礎となった。

01/02

日本軍、マニラ占領

本間雅晴 マッカーサー

01/20

ビルマ攻略戦

木村兵太郎 目的:援蒋ルート遮断

02/15

シンガポール陥落

山下奉文 パーシバル ○ 「イエスか、ノーか!」 降伏交渉において、パーシバル中将は条件を決めたがったが、山下中将の「降伏するのか、しないのか!イエスか、ノーか!」と詰め寄られ、気圧されて「イエス」と答えたという。誇張されたエピソードであったが、イギリスに勝利した象徴的なセリフとして、国民の間でもてはやされた。○占領後のゲリラ狩り と 「許そう。しかし忘れまい」 英軍降伏後も、マレーやシンガポールでは、華僑によるゲリラ活動が続いた。日本軍治安部隊はゲリラ狩りを行い、華僑を処罰。敗戦後、この行為が戦争犯罪とみなされ、山下中将以下、多数の将校が絞首刑に処せられた。また、戦後シンガポールを支配した華僑により、「許そう、しかし忘れまい」と、日本軍の悪行として現在にいたるまで伝わっている。

02/27

日本軍 ジャワ攻略作戦成功 連合国艦隊撃破

今村均、高木武雄

04/09

フィリピン占領 バターン半島占領・コレヒドール要塞陥落 (バターン死の行進)

本間雅晴           
D・マッカーサー 占領後、捕虜兵は8万人にのぼった。日本兵が総勢4万人の中、捕虜輸送用のトラックが足りず、90キロ離れた収容所まで歩かせたが、炎天下・食糧不足・マラリア流行で、1万人の捕虜が生命を落とした。これを米国は、ナチスと同類の残虐行為であるとし、「バターン死の行進」として喧伝した。本間中将は敗戦後、この「死の行進」の責任を問われ、処刑。 ちなみにマッカーサーは、陥落前に脱出し、「I shall return.」の文句を残した。が、見捨てられた兵は、マッカーサーを嘲った。

Wikipedia:バターン死の行進

04/09

セイロン沖海戦

    

南雲忠一 ジェームズ・サマヴィル イギリス海軍の東洋艦隊と行われた海戦
損害: 日本  航空機16 イギリス 空母1・重巡艦2・駆逐艦2・航空機50

Wikipedia:セイロン沖海戦

04/18

東京初空襲(ドゥーリトル作戦)

ジミー・ドーリットル

05/04

ビルマ(現ミャンマー)制圧

英領ビルマのアキャプ占領により、ビルマの占領が完了、これにより南方作戦が終了となる。日本は作戦目標をほぼ完全に達成する(フィリピンでの苦戦をのぞいて)

Wikipedia:南方作戦

05/06

日本軍 マニラ湾、南シナ海の制海権を握る

06/05

ミッドウェー海戦

山本五十六、南雲忠一、山口多聞、スプルーアンス、フレッチャー

06/18

マンハッタン計画 本格始動

原爆開発計画

07/05

泰緬鉄道 建設開始

タイ - ビルマ

08/07

アメリカ軍、ガダルカナル島に上陸

海軍設営隊、ヴァンデグリフト

Wikipedia:ガダルカナル島の戦い

08/09

第一次ソロモン海戦

三川軍一、五藤存知、クラッチレー、ターナー 「ワレ アオバ」

10/23

エルアラメインの戦い

ロンメル、モンティ エジプトで英国軍に敗北

10/26

南太平洋海戦

山本五十六、ウィリアム・F・ハルゼー

11/12

第三次ソロモン海戦(-11/15)

阿部弘毅、近藤信竹、ウィリス・A・リー 日本軍、初の戦艦沈没の被害、世界で初の「艦砲射撃」が使用される。

1943年昭和18年 01/14

カサブランカ会談

ルーズヴェルト、チャーチル ビルマにおける本格的反攻に合意シチリア島・南イタリアへの上陸作戦を確認枢軸国に無条件降伏を求めることを確認

01/31

スターリングラード攻防戦

パウルス、チュイロフ ドイツが決定的敗北を迎える、ここからドイツが押され始める

02/01

ガダルカナル島撤退開始 (02/07 撤退完了)

第11設営隊隊長 門前鼎大佐、第13設営隊隊長 岡村徳長少佐、 一木清直大佐(一木支隊)、川口清健少将(川口支隊)、丸山政男中将(第二師団)、辻政信中佐(作戦参謀)、佐野忠義中将(第三十八師団)  ガダルカナル島に上陸した総兵力は31,404名、うち撤退できたものは10,652名、それ以前に負傷・後送された者740名、死者・行方不明者は約2万名強であり、このうち直接の戦闘での戦死者は約5,000名、残り約15,000名は餓死と戦病死(事実上の餓死)だったと推定されている。一方、米軍の損害は、戦死1,598名、戦傷4,709名であった。

04/18

海軍甲事件(連合艦隊司令長官山本五十六戦死)

 

山本五十六                      
連合艦隊司令長官だった山本五十六を、大統領の了解を得て待ち伏せにより暗殺する 「ザ・ホワイトハウス S3-Episode21 - 平和の陰に」

Wikipedia:海軍甲事件

05/12

アッツ島の戦い(-5/29 初めて「玉砕」という言葉が用いられた)

山崎保代 「機密書類全部焼却,これにて無線機破壊処分す」が無線による最後の打電。

Wikipedia:アッツ島の戦い

05/27

全国抵抗評議会 結成

フランス・レジスタンスの統合組織

07/29

キスカ撤退作戦

木村昌福 日本側が無傷で撤退したため、濃霧で上陸したアメリカ軍が味方同士で暫く撃ち合った

08/01

ビルマ(現ミャンマー)独立宣言

アウンサン、南機関、バー・モウ、鈴木大佐、大川周明塾 日本軍の侵攻にあわせ、南機関の指導を受けたビルマ独立義勇軍がビルマに攻めこみ、イギリス軍を駆逐。独立を宣言する。しかし、日本の戦況が悪化していくと再びクーデターが起こり、この地はイギリス領へと舞い戻ることに。

Wikipedia:ビルマ戦役

08/01

朝鮮に徴兵制施行

09/03

イタリア、連合国に降伏

ムッソリーニ
バドーリオ 最弱へたりあのち、のうのうと連合国の仲間入りを果たし、戦後、日本に損害賠償を要求した

10/14

フィリピン独立宣言(フィリピン第二共和国)

ホセ・ラウエル大統領 米植民地からの開放ではあるが、日本の軍政下では経済・秩序が安定せず抗日ゲリラ戦争が起きたことが独立を急いだ理由と言える。しかし、ラウエル政権による統治も決して成功と言えるものではなかった。

Wikipedia:フィリピン

10/21

チャンドラ・ボース、自由インド仮政府樹立 (シンガポール)

チャンドラ・ボース

10/21

学徒出陣 出陣学徒壮行会

東條英機 岡部長景  明治神宮外苑競技場にて関東地方の文科系学生中心に7万人集まる。

ニコニコ動画:学徒兵映像 海ゆかば斉唱

11/05

大東亜会議開催

(11/06 共同声明発表) 東條 英機 ホセ・ラウレル  チャンドラ・ボース

11/22

カイロ会談

ルーズベルト、チャーチル、蒋介石 日本との戦争について基本方針を話しあった

11/27

カイロ宣言

ローズヴェルト米大統領、チャーチル英首相、蒋介石中国国民政府総統 米英中の3首脳が、満州・台湾の中国への返還、朝鮮の独立などを宣言

1944年昭和19年 3月~6月

インパール作戦

牟田口廉也、佐藤幸徳、宮崎繁三郎  遅くとも1ヶ月で攻略する予定の奇襲作戦であり、それを3ヶ月以上も継続したから後半は物資が尽きたが、2ヶ月までは物資は持ちこたえている。したがって補給を軽視した作戦だったから失敗したのではなく、奇襲作戦が失敗した後、 なお戦闘をダラダラ継続したから物資が尽き大被害が出たというのが正しい。 作戦としては、当時の状況ではこれ以上内はないと言うほど見事な作戦計画であり、英国もそれは認めておりインパール攻略は後一歩の所であった。批判されるべきは作戦計画ではなく、奇襲の失敗を認めて撤退を決める判断の遅れである。 ではなぜそうなったかと言えば15軍にも方面軍にも、大本営からは連日、激励の電報が届いており、何が何でも、なんとしても勝ってくれ、 日本の運命がこの一戦にかかっている!といった懇願するような電報である。止めるとは言いづらい雰囲気が醸成されていた。 当時は国の存亡をかけて一億玉砕の覚悟で全軍が戦っている時期であるため、後になって「なぜそんな無茶をした?」という批判は、 あまりにも的外れな批判ではないか。

Wikipedia:インパール作戦

06/06

ノルマンディー上陸作戦開始

アイゼンハワー

06/12

ドイツ、V1ロケットをロンドンへ乱射

6/19-20

マリアナ沖海戦

小沢治三郎

Wikipedia:マリアナ沖海戦

06/30

日本の都市で 学童疎開 始まる

07/07

サイパン島陥落

大場 栄、堀内今朝松 べトコンの如く、ゲリラ戦を行い米軍から「フォックス」、「サイパンタイガー」と呼ばれ恐れられた。 
映画化決定!太平洋の奇跡-フォックスと呼ばれた男-

「サクラ」「サクラ」 最後の無線電信を打電。
サイパン島の日本軍と住民約4万人が玉砕。

07/20

ヒトラー暗殺計画失敗

ロンメル元帥他 ヒトラーは、反乱グループとその関係者約7,000人を逮捕させ、約200人を処刑させた。

07/18

東條内閣 総辞職

絶対国防圏の要である、サイパン島が失陥した為責任を取り総辞職。次首相は小磯國昭

08/25

連合軍、パリを解放

シャルル・ド・ゴール ドイツ軍はパリを戦禍から守るべくほぼ無傷のまま明け渡したため、多くの歴史的な建築物や、市街地は大きな被害を受けることはなかった。

09/08

ドイツ 超音速V2ロケット開発

長距離ミサイルの原型になる。

09/19

モスクワ休戦協定(ソ連、フィンランド)

継続戦争の終結

10/23-25

レイテ沖海戦

栗田健男、宇垣纏

Wikipedia:レイテ沖海戦

10/25

特攻開始

関大尉ら敷島隊

11/07

ソ連、日本を侵略国と声明

スターリン

11/24

東京本土空襲 B-29による爆撃

カーチス・ルメイ

アメリカで「ザ・バトル・オブ・チャイナ」上映 フランク・キャプラが監督したプロパガンダ映画 Why We Fight (「なぜ我々は戦うのか」の意)シリーズの6作目である。1944年(昭和19年)にアメリカで上映された。

ニコニコ動画:「バトルオブチャイナ」のヤラセ映像

1945年 昭和20年

小笠原事件 (父島人肉事件) 立花芳夫、的場末男、伊藤喜久二、堀江芳孝、土屋公献、森国造ウォーレン・ボーン中尉 1945年(昭和20年)に日本軍が米軍の捕虜8名を殺害し、そのうち5名の人肉を嗜食したとされる事件である。酒乱で気性の荒い立花芳夫中将と的場末男少佐が共謀して「日本刀の凄みを披露する絶好の機会」という理由で、撃墜した米軍機から脱出して捕虜となった搭乗員を使って軍刀の試し切りをすることになった。そこで、大木に針金で括りつけた捕虜を予備役応召の伊藤喜久二中佐に師団長命令を発して斬殺させるなどし、さらに軍医に遺体を解体させて、その肉を戦意高揚のためとして焼いて酒宴の肴とした。参謀だった堀江芳孝少佐は立花らの素行にかねてから不安を感じており、捕虜のウォーレン・ボーン中尉を、自分の英語教師として身近に置くことで守っていたが、外出後に戻るとすでに処刑されて喰われた後だった。的場少佐の部下の供述調書によると、この時に的場少佐が発した命令は次の通り。一、大隊は米人飛行家ボーン中尉の肉を食したし 二、冠中尉は此の肉の配給を取り計らうべし 三、坂部軍医は処刑に立会い、肝臓、胆嚢を取り除くべし 1945年3月9日 午前9時 大隊長 陸軍少佐的場末男 発令方法…冠中尉並に坂部を面前に呼び口頭命令、報告は立花旅団長へ、通告は堀江参謀へ

01/09

米軍 ルソン島上陸

01/27

ソ連軍 アウシュビッツ解放

02/**

硫黄島陥落

硫黄島の戦没者で日本に帰ることの出来た遺骨は6千柱ほど、残る1万4千柱は今なお硫黄島のどこかの砂に埋もれたままとなっている。

一般Web:硫黄島攻防戦

02/11

ヤルタ会談・ヤルタ協定

ローズヴェルト米大統領、チャーチル英首相、スターリン書記長

03/06

白梅学徒隊 結成

沖縄県立第二高等女学校 四年生 生徒 46名当初は、56名。その後、25日に3名、27日に9名が除隊し、46名の生徒が入隊。 校舎は沖縄大空襲にて焼失。仮校舎にて勉学に励み、昭和20年2月から看護教育が始まり、従軍補助看護婦として56名の四年生が東風平国民学校に本部を置く第24師団衛生看護教育隊に入隊。その後、米軍の攻撃が激化し、看護教育は打ち切られ、八重瀬岳中腹にある第24師団第一野戦病院(山3486部隊)に配属される。

03/09

明号作戦

日本、フランス、仏領印(ベトナム、ラオス、カンボジア) ヴィシー政権の崩壊を受けて日本はフランス領インドシナのフランス軍を制圧。ベトナム・ラオス・カンボジアの各皇帝・国王に、独立宣言を促す。

Wikipedia:明号作戦

03/10

東京大空襲

鬼畜 カーチス・ルメイ ルメイは1964年、「ノーベル平和賞」を受賞した佐藤栄作首相より勲一等旭日大綬章を授与。

Wikipedia:東京大空襲

03/17

硫黄島守備隊玉砕

栗林忠道 「国の為 重き努を 果し得で 矢弾尽き果て 散るぞ悲しき」  2万3000人玉砕。返歌天皇陛下御製  「精魂を 込め戦ひし 人未(いま)だ 地下に眠りて 島は悲しき」(平成六年硫黄島行幸啓) 『米国大統領への手紙』 平川祐弘 新潮社

03/23

ひめゆり学徒隊 動員 生徒 222名 教師18名 沖縄師範学校女子部と沖縄県立第一高等女学校の教師・生徒で構成された部隊。「ひめゆり」の名称は、沖縄県立第一高等女学校の学校広報誌「乙姫」と沖縄師範学校女子部の学校広報誌「白百合」を併せて「姫百合」という名称が由来。

3月~6月

沖縄戦 牛島満(写真)、 太田実、 八原高級参謀 「沖縄県民斯ク戦ヘリ県民ニ対シ後世特別ノ御高配ヲ賜ランコトヲ」

Wikipedia:沖縄戦

04/01

アメリカ軍 嘉手納上陸 沖縄戦開始 (アメリカ軍、沖縄本島上陸)

04/05

ソ連、日ソ中立条約の不延長を通告

04/07

戦艦大和撃沈 伊藤整一、有賀幸作

04/29

ヒトラーの愛犬・ブロンディー、ヒトラーにより毒殺 ヒトラーが自殺に用いる青酸カリの効力を愛犬で試す

04/30

アドルフ・ヒトラー自決

5/7,8

ドイツ、連合軍に降伏

アルフレート・ヨードル ドワイト・D・アイゼンハワー 第二次世界大戦のヨーロッパ戦線はここに終結した。

05/14

最高戦争指導会議、対ソ交渉方針を決定 (終戦工作開始)

06/04

白梅学徒隊 解散・戦死 生徒 46名戦死者数:22名 米軍の猛攻により第24師団第一野戦病院は南部へ後退する事と決まり、「白梅学徒隊」解散。46名の生徒たちは数名ずつに分かれて南部へと逃げ、この逃避行中にも多くの犠牲者を出し、国吉に後退した第24師団第一野戦病院壕に迎えられて勤務を続けていた生徒たちも6月21日~22日にかけての米軍の猛攻により戦死した。

06/08

御前会議で本土決戦決定

06/18

和平交渉推進を決定 天皇陛下、木戸幸一内大臣

06/19

沖縄 ひめゆり学徒隊 集団戦死 6/19以降激化、教師・学徒240人のうち136人が死亡

06/23

沖縄守備隊全滅 牛島司令官、長参謀長

07/02

アメリカ軍 沖縄戦終了を宣言

07/17

ポツダム会談 (~08/02)

米・英・ソの首脳がドイツの戦後処理

07/26

ポツダム宣言発表

米・英・中の3ヵ国が、条件を示して日本に降伏を迫った

08/06

広島に世界初の原子爆弾(ウラン型)投下

ポール・ティベッツ空軍大佐(機長。エノラ・ゲイは機長の母親の名) AM8:15 広島 相生橋を照準とされ、エノラゲイ(搭乗員12名)によりリトルボーイが落とされた 140,000人死亡 Youtube:原爆被災記録映画

08/08

ソ連が、日ソ中立条約を侵犯し日本に宣戦布告

08/09

長崎に原子爆弾(プルトニウム型)投下

チャールズ・スウィーニー(ボックスカー機長)フレデリック・アッシュワース海軍中佐(長崎市への投弾を決断した奴) AM11:02 長崎 市街中心部を照準とされ、ボックスカー(搭乗員13名)によりファットマンが落とされた 74,000人死亡

Wikipedia:長崎市への原子爆弾投下

08/10

御前会議、条件付きでポツダム宣言受諾を決定

国体護持のみを条件にポツダム宣言受諾を決定

08/15

敗戦・玉音放送(終戦の詔勅)

鈴木貫太郎、阿南惟幾(あなみ これちか)、平沼麟太郎

Youtube:玉音放送 終戦の詔勅